熊野古道・伊勢路1(伊勢神宮−田丸)(三重)

          
1.伊勢神宮−田丸   2.田丸−栃原   3.栃原−滝原   4.滝原−梅ヶ谷  
5.梅ヶ谷−三野瀬  6.三野瀬−相賀  

map map


05.14 伊勢神宮8:45−10:40外宮−11:30度会橋−13:50初瀬街道熊野街道合流点−15:20田丸城天守閣跡

(写真をクリックすると拡大されます)
5月14日(土)晴
内宮での神事 伊勢神宮にお参りして戻るとき神宮内で警備員が出てきて一時通行止めにした。何事かと見ていると神官が大勢出てきて何かの神事を行っている。
内宮宇治橋 ここは何度も写真を撮ったことのある宇治橋。今日はここからスタートするようなものだ。
おかげ横丁 まだ9時台でも観光客は結構来ている。おかげ横丁とおはらい町通りの区別がつかない。
猿田彦神社 ニニギの天降りの先導をした猿田彦神を祀る神社で全国に2000社ある猿田彦神社の総本社。
厩戸王子 猿田彦神社の角を曲がり緩やかな坂を上る。高速の下をくぐって少し行ったあたりが古市は日本三大遊郭の一つとして賑わったと記されている。間の山には小屋掛けして間の山節を演奏した女芸人、お杉とお玉の石碑が立っている。
外宮 外宮にお参りしてから内宮にお参りするものと聞いていたので、外宮は昨日のうちにお参りし、今日は前を通るだけ。
マンホール この付近はマンホールの蓋にもお伊勢参りの歩く姿が描かれている。
度会橋 昔の渡し場、柳の渡し場の跡を見ようと宮川へ出て遠回りして度会橋を渡ったが、結局渡し場はどこにあったのか、何も書いてない。
 
度会橋を渡って宮川沿いを少し南下すると柳の渡し跡の説明板が立っていた。
柳の渡し場付近 説明板には次のように書かれている。
「昔宮川には橋がなかった。二か所の渡し場で渡し船が人と物のすべてを運んだ。 下の渡し(桜の渡し)の上流に位置して、大和・四国・熊野からの参宮客をここで対岸山田へ渡したのがこの「柳の渡し」であった。 江戸時代、参宮が盛んになったころのこの水辺にはその名の通り青い柳がしげり、掛茶屋が軒をならべてにぎわっていた。
ここを渡れば新都、念願のお伊勢参りの歴史を柳の渡しはだまって見つづけてきた。
柳の渡しは明治三十年、参宮鉄道の開通でほぼその役割を終え、同四十四年度会橋の架橋で終止符をうった。」
 
この辺りで堤防を越えて川辺に下り、昼食にした。
熊野街道・伊勢街道と併記した標識 今日は車を玉城町役場の駐車場に車を停めて田丸駅から伊勢神宮に向かったが、ちょうど電車が出た後だったのでバスに乗ったが、そのバスが通った道である。
途中に熊野街道・伊勢街道と併記した標識が立っていた。
東屋 この街道はほとんど家が立て込んでいるが、一か所だけ田園が広がる場所がある。そこに休憩用東屋が立っている。入ってみると87歳の元気そうな御爺さんが座っていた。昔は金回りがよかったので週に7回はゴルフに行き、それが今の健康のもとになっている。先日も調べてもらったが、悪いところはどこもないとのこと。ただ友達はほとんど皆死んでしまったと寂しそうだった。
街道筋 東屋の立つ田圃を除くと写真のようにずっと家が立ち並んでいる。
初瀬街道・熊野街道合流点 「大和からの初瀬街道、熊野からの熊野街道がこの地点で合流し、伊勢本街道として伊勢神宮へと続いていました。 交通の要衝といわれ、伊勢参宮と西国三十三ヶ所の観音巡礼のため、田丸の町は大変賑わったと言います。 現在この地にあった道標は、玉城中学校庭に保管されています。」と記されているここが今日の最終地点。
まだ時間が早いので田丸城へ寄ってみた。上へあがると玉城中学校が大きく占領しているが、城の本体そのものは石垣もしっかり保存され、なかなか立派な城だったことが想像される。
田丸城登り口 大手門付近の石垣 お稲荷さんに占領された北の丸 本丸、突き当たりが天守閣跡
登り口の案内図 大手門付近の石垣 稲荷神社に替った北の丸 本丸、突当りが天守閣石垣

年代順  ホームへ  
inserted by FC2 system